東北 斉藤茂吉記念館 土門拳写真展示館
前々日、夜8時に名古屋を出港した大型フェリー「きそ}は、波静かな伊勢湾を南下、午後10時過ぎには伊勢湾口神島水道を通過、日本列島に沿って北上し、一路仙台港を目指した。
翌日の夕刻には仙台港に接岸、その夜はJR仙台駅近くのビジネスホテルへ投宿した。仙台は伊達政宗公の築城による青葉城と牛タンが有名である。
今回の旅の目的は仙台の観光ではない。明日の早朝にはJR仙山線の快速に乗って発たなくてはならない。睡眠促進のビールを早々に飲み干すと、純白のベットに体を沈めた。
8月31日(土)
山形へ移動する日だ。東北地方最大の政令指定都市だけあって、仙台駅から吐き出されてくる乗降客の流れが途絶える事は無い。仙山線ホームへ向かう。
今日の行程は山形市郊外にある茂吉記念館・左沢線(あてらざわせん)往復踏破と、陸羽西線で最上川沿いをくだり日本海沿岸の湊町酒田まで、距離は長い。
分水嶺を越えると勾配は下りになり、列車は山形盆地へ滑り降りるように快走して行く。北山形を通過して間もなく高層ビルが目立ってくると山形駅である。さすがに山形県都だけあって駅前の繁華街は賑わい活気が感じられる。
5分の待ち合わせで米沢行の普通列車に乗り換えた。乗り込んだ車両は、この地方に多いロングシートタイプで、座席は7割がた埋まっていた。
ここから二つ目が茂吉記念館駅で、記念館は駅から3分の丘の上に建っていた。あたり一帯は緑が多く城跡のような感じがする。今朝からの雨は一向に止む気配がない。かなりの雨量である。しかたなくホームの待合室に入って、折り畳み傘を取り出した。
記念館前の広場からは、天気がよいと名峰蔵王連山が見える筈であるが、今日は厚い雨雲にさえぎられて、鉛色の雲が棚引くばかりである。
茂吉記念館は日本建築様式であった。玄関を入ると広いロビーがあり受付カウンターには、うら若いお嬢さんがにこやかに迎えてくれた。音響による資料提示の第一回目の開演時刻が迫っていて、「まず、このお部屋からご覧下さい」と案内を受け、念願の茂吉記念館の見学が始まった。
「のど赤き玄鳥(つばくらめ)ふたつ屋梁(はり)にいて足乳ねの母は死にたまふなり」歌集 赤光
中学校の国語教科書にこの作品が載っていて、八歳で実母と死に別れた体験を有する小生は 、この作品の情景に心情が重なって、不覚にも涙がこみ上げて来たのを思い出した。
「最上川の支流(ながれ)の音はひびきつつ 心は寒し冬の夕暮れ」
「あたらしき時代(ときよ)に老いて生きむとす 山に落ちたる栗のごとくに」
歌集 白き山
感想 二つとも寂しい情感が迫ってくるなあ。孤独感もね!!
・書画・愛用のペンなどの遺品と、茂吉が執筆活動をした日本間や居間の再現が印象に残った。
ここには昼食を食べる店が無く、今から山形へ戻って昼食を摂ってから、JR左沢線を制覇して再度山形へ。通称てっちゃん(鉄道旅行愛好家)の我輩としては、この度の左沢線完全乗車は必須の目的である。
山形駅構内の蕎麦屋で、簡単に昼食を済ます。東北は何処で食べてもソバは美味い。左沢線は2両編成のワンマン運転。車両の側面にフルーツライナーと大書していて、この沿線一帯がサクランボをはじめ果物の名産地である事を伺わせた。
山 形 発 09:35 米沢行普通
茂吉記念館着 09:44
斉藤茂吉記念館見学
茂吉記念館発 11:18 山形行普通
山 形 着 11:27
-昼食ー
山 形 発 12:10 左沢行普通
左 沢 発 13:06 山形行普通
山 形 着 13:46
山 形 発 14:46 新庄行普通
新 庄 着 16:02
新 庄 発 16:14 酒田行普通
酒 田 着 17:15 ホテルアルファーワン酒田 泊
明けて9月1日、記念館の開館時間に合わせて行動開始。
市内バスの時間都合が悪くて、ホテルのフロントはタクシーを呼んでくれた。待つこと3分ほど。
第一タクシーという会社の中型車が来たが、ドライバーを見て驚いた。ステキな美人である。小野小町の再来か。酒田市は秋田県と県境を接しており、隣は秋田県本庄地方である。
確かこの辺りから世界三大美女と言われる「小野小町」が、生まれている筈である。この美人ドライバーは小町に勝るとも劣らない美女だ。だだし、
小生は小町を「見たことが無いので厳密な比較は困難である」とすると、この話は正確さにかなり欠けるが。
とりとめも無い世間話をしている間に、車は10分程で酒田市写真展示館に着いた。帰りのバスも回数が少なく期待ができそうも無いので、迎えの時間を約束して酒田駅まで再度走ってもらうことにした。これは、運転手さんが美人だからではない。あくまで小生の旅程の都合である。
緑を多く残した自然の中に写真館は建っていた。隣は総合スポーツ公園だ。今日は休日のためサッカー大会が開催されていて歓声が聞こえてくる。過日山形県で行われた「べにばな国体」の会場にも使われた規模の大きいものである。
土門拳記念館正面玄関
大きな御影石に「酒田市写真展示館」、副題として
「土門拳写真館」と彫りこんである。
土門拳氏が自己の生涯の作品を、出身地の酒田市に寄贈して
この写真館が出来たそうである。
近代的な感じがする西洋風の落ち着いた建築物で、まだ新しい。受付で入館料金\420を支払う。背負っているリュックを見つけて「お荷物を 事務室でお預かりしましょうか」と、声をかけて下さった。
小型と言えリュックを背負った老爺にはこのご親切な言葉は嬉しかった。ご好意を素直にお受けしたのは当然である。東北人の温かさが身に沁みた一瞬であった。有難う。
館内に入ると内部は広く、展示は活動年代別・作品別にスペースを使って工夫が凝らされていた。
この掛軸は、土門拳氏の最高傑作と知られる作品名「古寺巡礼」拳氏直筆。
他に、「室生寺」「ヒロシマ」「筑豊のこどもたち」「文楽」
「風貌」「江東のこども」「古窯遍歴」「日本名匠伝」など、
不朽の名作を残している。
土門拳の芸術は、日本の美、日本人の心を写し切ったところにあるといわれ、その業績に対する評価は極めて高い。
日本最初の写真美術館
土門拳記念館は日本最初の写真専門の美術館として、また個人の写真記念館としては世界でも唯一のものである。
土門拳の全作品約70.000点を 収蔵し、保存をはかりながら順次公開している。
(財団法人土門拳記念館 刊行資料より一部引用)
館内の休憩コーナーから見渡せる庭園。
裏山を借景にした雄大なものである。
館内ロビーから眺められた広大な池は玄関に入 る時に左側に開けていた水面だった。手前の銘石は草野心平筆になる「拳湖」である。
タクシーの美人運転手の話によると、酒田市がこの施設や総合運動公園を開発するまで、この一帯は農地だったそうである。 確か、昭和30年代に酒田市は市街地の大半を焼失する大火に見舞われているそうだが、その痕跡は市街地に見られない。 酒田は北前船が蝦夷地と都を結んで物資や文化を運んだ交易で繁盛した日本海沿岸の湊町であった。また、最上川水運により内陸部から紅花や米穀を集積した商業の町として発達した。 現在も昔の栄華を偲ばせる巨大な倉庫が港の周辺に残されている。「粋な文化に出会う町」と言うキャッチフレーズで、JR酒田駅の横断幕が迎えてくれたが、それに出会うにはもっと時間をかけた滞在と交流が必要なのだろう。不思議な雰囲気と温かさを持つ町酒田であった。 酒 田 発 11:43 新庄行 新 庄 着 12:49 新 庄 発 12:53 秋田行 大 曲 着 14:33 大 曲 発 14:46 盛岡行 盛 岡 着 16:46 ホテルルートイン盛岡駅前 泊 9月2日(日) 帰途に着く 雲林院写真館へ戻る
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ブログを試行錯誤しながら作り始めています。
不明なことが多すぎます。
しかし、老化防止のために新しい事柄に挑戦しなければならない。
精進しなければ完成は期待できない。